久しぶりにブログを開いてみた。すでに2012年2月の半ば
となり、この間の長さを思い知る。友からの年賀状による催促も
あって思い起こすことにした。美術館の運営はほぼ自身が予定
した以上に進展がありうれしい限りだ。海外向けのプロモーション
スライドビデオをYOUTUBEに再びアップ。
http://www.youtube.com/watch?v=85ew63sU8Zs
少しづつ反響が出てきた。
更に版木が大量に確認されたので、活用方法を考えることにした。
版木を見てみると意外に平面的であり、作品から想像する3Dには程遠い。
やはり、制作過程にヒントがありそうだ。
田嶋作品の創作プロセスを少しでもわかるように展示できると良い
のだが。今後の課題としよう。
話題が変わって、新年に中国金融研究会なる賀詞交換会に参加したが、
凋落の日本を感じつつ、一方隆盛を極めんばかりの中国の勢いを感じた。
日本政府のふがいなさを笑う彼らを尻目に、”この国を何とかせにゃならん”
という思いが募る。本日、彼らからのメールが届く。内容は日本観光庁から
の在日中国人にたいする中国人観光客増強依頼文の転送だ。予算も人もつけて
呼び込んでいるので、みんな協力してあげようといった感想。
大きく時代が変わった。本当に自覚がまだできていないのは日本人自身
かもしれない。トホホ
14:07
田嶋宏行氏に対する海外の評価(その1)
2011.09.08 結工房記念美術館にて
2001年春、利恵夫人が大英博物館へ72枚の作品を寄贈したことで、保存の関係からより詳細
な研究が専門的に行われた。大英博物館保存部門の絵画芸術分野の責任者であるHeather
Noville-Day氏の論文のタイトル「WORKING OUTSIDE THE REALMS OF TRADITIONAL
METHODS AND MATERIALS」伝統的手法や構成要素(素材)とは異なった領域の作品で
あると紹介している。また、同博物館の日本古美術部門の学芸員Tim Clarkは田嶋の実験的
試みにたいし、DaDa主義(第一次世界大戦後にかけて欧米で興った芸術運動:既成のあらゆる
芸術的・社会的価値体系を否定し極端な反理性、反道徳主義を唱えた)やシュールレアリスム
(超現実主義)とは違って、田嶋の絵画的形象・イメージによる人を引き付ける魅力は、欧米
芸術家のAntoni Tapies(1923年バルセロナ生まれ。20Cの現代美術巨匠の一人)、Anish Kapoor
(1954年ムンバイ出身。現代彫刻家であり、1990年のベネチア ビエンナーレで2000年賞を
受賞)に並び称されると高く評価している。田嶋の版画が世界中の数多くのコレクターに
保有されている理由でもあると述べるなど、海外での評価は非常に高い。今でも東洋絵画に
関するオークションには、必ずと言っていいほど、田嶋の作品が出品されている。つづく
15:42
田嶋宏行氏の逝去後
2011.08.07 世田谷大蔵工房にて
田嶋氏が1997年に亡くなった3年後の2000年に、利恵夫人によって作品72点が大英博物館へ寄贈された。 いづれもボナティエール(作家保存版)である。 大英博物館では保存の関係から科学的な分析も行われ、 一つの論文が出されている。 海外での目利きを評価した夫人の貢献であろう。また、2003年にはインデアナポリス美術館へ、国内では町田市立国際版画美術館、府中市立美術館、妙義山麓美術館、須坂版画美術館などにも寄贈された。
大英博物館への寄贈は、将来における田嶋版画の普遍的な価値を高める上でも意義があったと思われる。論文の冒頭に「芸術家の意図を含んでいるどんな実験的研究のものであっても、その成分と版画の詳細な部分を特定し、記録することは絶対必要である。」との一文に、この版画家の創造性を見出してくれる期待が高まる。田嶋版画は色合いがユニークで燃え立つような立体的な豊かさに特徴付けられる。版画にキラメキ広がる光の効果を出すために、水彩絵の具を採用する技術とそれに油彩絵具を重ね染める技術を開発した。と紹介しており、また、複合画材を実験的に用い、伝統的木版画技術の進歩に貢献した抽象表現主義の先駆的主導者とも言っている。表現力に創造性が
豊かなことから、後世に再現できる可能性は薄い。非常に価値がある作品だと思う。
田嶋氏が1997年に亡くなった3年後の2000年に、利恵夫人によって作品72点が大英博物館へ寄贈された。 いづれもボナティエール(作家保存版)である。 大英博物館では保存の関係から科学的な分析も行われ、 一つの論文が出されている。 海外での目利きを評価した夫人の貢献であろう。また、2003年にはインデアナポリス美術館へ、国内では町田市立国際版画美術館、府中市立美術館、妙義山麓美術館、須坂版画美術館などにも寄贈された。
大英博物館への寄贈は、将来における田嶋版画の普遍的な価値を高める上でも意義があったと思われる。論文の冒頭に「芸術家の意図を含んでいるどんな実験的研究のものであっても、その成分と版画の詳細な部分を特定し、記録することは絶対必要である。」との一文に、この版画家の創造性を見出してくれる期待が高まる。田嶋版画は色合いがユニークで燃え立つような立体的な豊かさに特徴付けられる。版画にキラメキ広がる光の効果を出すために、水彩絵の具を採用する技術とそれに油彩絵具を重ね染める技術を開発した。と紹介しており、また、複合画材を実験的に用い、伝統的木版画技術の進歩に貢献した抽象表現主義の先駆的主導者とも言っている。表現力に創造性が
豊かなことから、後世に再現できる可能性は薄い。非常に価値がある作品だと思う。
14:05
田嶋宏行氏が師事した人達
2011.6.20(mon.)
1932年東京芸術学校で広川松五郎に染色技法を、また水彩画は中西利雄に共感し研究したようである。特に中西利雄は一貫して油彩以上の重量感のある画趣を遺したことで有名。田嶋の作品工程の
一部に水彩が油彩に負けず劣らず存在感を発揮しており、水彩画法は中西による影響が多分にあったのであろう。1942年~1945年は戦争により中断、彼自身は陸軍建設部隊に所属した。
戦後抽象画を取組むにあたって、多大な影響を与えたのが斉藤義重である。彼は1960年代50歳代で
グッケンハイム国際展の最優秀賞受賞、サンパウロ・ビエンナーレでは外国部門最優秀画家賞などを
受賞。抽象で世界に認めれれた日本芸術家の先駆者である。常に前衛的で、反骨の人であった。
戦前から戦後にわたり古い権威主義との孤高の戦いを続けて、日本より海外での評価が高かった人
である。田嶋氏が抽象画へ傾斜し、孤高にかつ権威主義に抵抗した姿がダブってくる。日本より海外
での評判が高かったのも共通である。つづく
1932年東京芸術学校で広川松五郎に染色技法を、また水彩画は中西利雄に共感し研究したようである。特に中西利雄は一貫して油彩以上の重量感のある画趣を遺したことで有名。田嶋の作品工程の
一部に水彩が油彩に負けず劣らず存在感を発揮しており、水彩画法は中西による影響が多分にあったのであろう。1942年~1945年は戦争により中断、彼自身は陸軍建設部隊に所属した。
戦後抽象画を取組むにあたって、多大な影響を与えたのが斉藤義重である。彼は1960年代50歳代で
グッケンハイム国際展の最優秀賞受賞、サンパウロ・ビエンナーレでは外国部門最優秀画家賞などを
受賞。抽象で世界に認めれれた日本芸術家の先駆者である。常に前衛的で、反骨の人であった。
戦前から戦後にわたり古い権威主義との孤高の戦いを続けて、日本より海外での評価が高かった人
である。田嶋氏が抽象画へ傾斜し、孤高にかつ権威主義に抵抗した姿がダブってくる。日本より海外
での評判が高かったのも共通である。つづく
20:37
田嶋宏行氏の青年期

2011.6.15 (wed) 田嶋氏の1930年代の青春期、利恵夫人小学生高学年の時代。田嶋氏はその当時の自由闊達な青年が歩んだ反戦運動と共産主義運動に手を染めていく。
利恵夫人の実家の近くに共産主義運動の学生の溜り場があったようだ。田嶋氏もその 一員として、熱っぽく反戦と理想の社会に対し議論していたのではなかろうか。しかし、
後の話の中で、共産主義の思想はだれも救ってはくれない、共産党も間違いだった。また美術学校の師弟関係や、画壇の派閥にみる縦社会に対しても失望感を抱いており、
その当時から日本の縦社会の閉鎖性に嫌気をさしていたようである。彼の反骨精神が新しい表現力革新的取り組みを決意させ、彼独特の作品を生み出す源となったと言えよう。モダンアート協会、日本版画協会員に名を連ねた時期もあったが脱会した後は、海外への展開へシフトしていく。若干時代的考察が必要だが、1930年台、利恵夫人は横浜にあるシティーバンクに勤めていた。終戦後再びシティーバンクに勤めるようになった
時代に宏行氏と再開している。海外への展開に対しては利恵夫人の影響が多分に
あったものと思われる。 1970年 green wall by Hiroyuki Tajima 続く
利恵夫人の実家の近くに共産主義運動の学生の溜り場があったようだ。田嶋氏もその 一員として、熱っぽく反戦と理想の社会に対し議論していたのではなかろうか。しかし、
後の話の中で、共産主義の思想はだれも救ってはくれない、共産党も間違いだった。また美術学校の師弟関係や、画壇の派閥にみる縦社会に対しても失望感を抱いており、
その当時から日本の縦社会の閉鎖性に嫌気をさしていたようである。彼の反骨精神が新しい表現力革新的取り組みを決意させ、彼独特の作品を生み出す源となったと言えよう。モダンアート協会、日本版画協会員に名を連ねた時期もあったが脱会した後は、海外への展開へシフトしていく。若干時代的考察が必要だが、1930年台、利恵夫人は横浜にあるシティーバンクに勤めていた。終戦後再びシティーバンクに勤めるようになった
時代に宏行氏と再開している。海外への展開に対しては利恵夫人の影響が多分に
あったものと思われる。 1970年 green wall by Hiroyuki Tajima 続く
16:26
田嶋宏行氏の生い立ち
2011.6.13 夜から朝方にかけ、低気圧の通過で相当な雨が降った。とても蒸し暑い一日となる。真夏が今から思いやられる。さて、田嶋氏については奥さんからの話が唯一記録されている。
1911年東京生まれ。小学校5年の時、祖父が住む松井田町に移る。祖父は同町で「しまや」という飛脚問屋を営んでいたということだが、1867年大政奉還により、その後郵便事業に政府が乗り出したことから、1930年代その当時何を営んでいたかは定かではない。松井田町は碓氷峠を経て、長野県軽井沢町と接し、東京から約130㎞の距離にある。松井田城を中心に栄え、中山道の坂本宿と並ぶ宿場町として栄えたので、その宿場町の飛脚問屋と言えばそれなりに著名であったであろう。彼は母親を彼自身生後4日にして亡くし、松井田の祖父母に育てられた。奥さんに語った彼自身の言葉によると「周りは他人ばかり、”僕はいつも人の事を気にかけていた”」そうだ。幼年期の体験が、彼の性格を形作ったのではないか。画壇において独立独歩の道を歩み、創作版画において独自の分野を開いたのも、この時代の体験が影響していると思われる。1941年太平洋戦争が始まる前に結婚をしたが、息子を疎開先の池でおぼれて亡くすなどつらい日々が続いたようだ。最初の奥さんの話はその後出てこない。
絵を書くのが好きだった少年は、県立高崎商業学校を卒業後、東京美術学校(現芸大)、日本大学芸術学科で学ぶことになる。次回に続く
1911年東京生まれ。小学校5年の時、祖父が住む松井田町に移る。祖父は同町で「しまや」という飛脚問屋を営んでいたということだが、1867年大政奉還により、その後郵便事業に政府が乗り出したことから、1930年代その当時何を営んでいたかは定かではない。松井田町は碓氷峠を経て、長野県軽井沢町と接し、東京から約130㎞の距離にある。松井田城を中心に栄え、中山道の坂本宿と並ぶ宿場町として栄えたので、その宿場町の飛脚問屋と言えばそれなりに著名であったであろう。彼は母親を彼自身生後4日にして亡くし、松井田の祖父母に育てられた。奥さんに語った彼自身の言葉によると「周りは他人ばかり、”僕はいつも人の事を気にかけていた”」そうだ。幼年期の体験が、彼の性格を形作ったのではないか。画壇において独立独歩の道を歩み、創作版画において独自の分野を開いたのも、この時代の体験が影響していると思われる。1941年太平洋戦争が始まる前に結婚をしたが、息子を疎開先の池でおぼれて亡くすなどつらい日々が続いたようだ。最初の奥さんの話はその後出てこない。
絵を書くのが好きだった少年は、県立高崎商業学校を卒業後、東京美術学校(現芸大)、日本大学芸術学科で学ぶことになる。次回に続く
13:20
2011.6.10
昨日は世田谷美術館の美術課長を迎え、午後のひと時、文化論議に花が咲いた。
世田谷美術館が来月から来年3月まで改修工事に入るとか、我が美術館のポスター
を貼ってもらえなくなる。田嶋氏の作品は海外の美術館で永久コレクションとして所蔵されているが、日本で彼の研究者は一人もいないのが残念だ。(シカゴ・アート・インスティチュート、グッケンハイム、ブルックリン、ニューヨーク近代美術館、大英博物館、西ベルリン国立博物館などで所蔵) その結果、彼に関する資料が乏しい。大英博物館の専門部門で保存学の観点から研究論文が出ているのが唯一であろう。彼の作品は木版画の工程分担はなく、「絵を描く、彫る、刷る」すべてを自らの手で行ったところに特徴がある。それだけに一作品の枚数が少ないし、魂の入り具合で作品の印象が変わることもある。ほとんど油絵に近いのかもしれないが、しかし版画なのだ。不定期ではあるが少しづつ紐解いて行こう。{写真は新緑に萌える工房の庭}let's enjoy tokyoで紹介された美術館案内URL http://www.enjoytokyo.jp/museum/spot/l_00032967/
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